2015年は「商業犯罪」元年か?(+進捗のご報告)

重金やからです。
制作中の「万目今日助」の続編ですが、まだプログラム20%・シナリオ30%ぐらいの進捗です(お待たせして、申し訳ありません)。
ゲームのシステムを、HTML5ベースのものからUnity環境へと移行するため作り直しているのに時間がかかっています。
シナリオ・システムなどは、GooglePlay・AppStoreなどの皆様からのご評価を参考にしつつ、鋭意制作しております。

商業犯罪(※造語):
 

    商業的に利用することを目的に、犯罪を実行して社会的知名度を得ること。
    (あるいは、その逆の場合も含まれる)

最近、過去に殺人を犯し、少年犯罪として判決を受けた人物の手記が出版され、色々と話題になっています。
(『絶歌 神戸連続児童殺傷事件』元少年A【太田出版】)

内容について、私は読んでいないので触れられませんが、この本についての記事や引用された文章を見ると、「詩的な表現」が特徴であると思います。おそらく、出版サイドとしてはこれに「文学」という方向性をもたせて、批判をかわす思惑があるのかもしれません(同じヌードでも、ポルノ写真と芸術作品では扱いが違うように)。

こういったものを評価する人々が存在し、また出版物としての大きな需要があることは、殺人犯から小説家になった永山則夫の例をみても明らかです。
また、出版社側もそういうカタチを横目にとらえつつ、今回の件に関わっているとも思えます。つまり、ある意味で「小説家としてのデビュー」という含みが、すでに示されているというコトです。

ただ、永山則夫の例ではその後本人が死刑に処されたため、得失の点からこの事件を模倣する必然性は低いといえます。
ですが、対照的に今回の事件ではすでに本人に対する法的な処分は終わっており、その点で彼の得るものが相対的に際立っている、という見方もできます。

もちろんこの件で、事件当時の彼は「現在の状況」を想定していなかったと思いますが、問題は「本人の得失」をめぐる評価のされ方です。
また、こういった事が前例として存在することで、過去に世間の注目を集める事件を実行した人物が、商業的に消費されるというカタチが拡大してゆくと思われます。

私としては、今回の件が少なからず契機となり、「商業犯罪」という新しい概念が姿を現すのではないか、と感じています。
これは、例えば詐欺的な取引でお金を騙し取る、というコトとは根本的に違います。その場合は、利益を生み出す商業行為が結果的に犯罪になりますが、「商業犯罪」は犯罪そのものが利益を生み出します。

もちろん、過去にそういうケースは当然あったはずで、単純な概念として新しくはありません。新しくなったのは、犯罪による得失(コスト・ベネフィット)についての方法論だと思います。

近年、人々とメディアとの距離感は大きく変化しています。
例えば、犯罪をソーシャルメディアで詳細に実況するという個人の行為が、「ソーシャルメディアで実況された犯罪」というカタチで大手メディアに吸い上げられ、「ついに『犯罪なう』か?」という味付けで消費される、という構図を利用すれば、大きな罪(コスト)を犯さなくとも、メディアによる露出(ベネフィット)を最大化できる――という「やり方」も可能だといえます。

また、以前PC遠隔操作事件というのもありましたが、こういった警察の捜査における新しいタイプの死角・弱点を巧妙についてゆくことで、メディアの扱いがさらに大きくなります。
もちろん、大きな罪に問われないことを計算してストレートに犯罪を実行するのも『アリ』かもしれません。裁判員制度などを見ても、判決の前例主義における「セーフのライン」は逆に明白になりつつあるといえます。

また、最近の新しいメディアによって個人的に利益を得る手段が増えている、というのも大きな要因です。
出版社が相手にしないような場合でも、「やり方」次第というコトになります。つまり、知名度を利益に変換するのはより簡単になり、「モラル的審査」は古いメディアからも捨てられてゆきます。

これも最近のことですが、マスコミにまぎれて容疑者とされる人物を「取材」する、「ドローン」を飛ばすなどの行為を動画配信していた少年が、視聴者から金銭を受け取っていたという事がニュースになっています。
もし、彼のやっていたことが違法であるなら、これはある意味「商業犯罪」のミニマムな形だともいえます。

アメリカでは、ニューヨーク州をはじめとする多くの州に「サムの息子法(Son of Sam law)」が導入されているそうです(この法律は、まさしくこういった「商業犯罪」を規制するものですが、人権侵害の側面から憲法違反であるとして、内容は何度か修正されています)。

ですが、個人的見解として日本でこういった法規制がされる可能性は、非常に低いと思われます。
そもそも、日本の人権保護活動はもっぱら罪を犯した側へ向けられる事が多く、議員レベルでもそういった活動の槍玉にあげられるリスクから、被害者サイドの法律には関心が低いようにみえます。

ちなみに、先ほどの例で永山則夫を挙げましたが、彼は処刑前に「俺を殺したら革命が起きるぞ」と言ったとされています。専門家ではありませんが、心理学的にこの発言は非常に『操作的(manipulative)』なものだと思います。

もちろん、彼個人とここでいう「商業犯罪」を直接結びつけることはできませんが、奇しくもそういったパーソナリティーは人間の新しい形の『悪徳』かもしれません。今回の出版について反対する行動、あるいは賛成する行動も含めて何らかの『力』による結果であり、それを意図して原因を作り出すものが「操作」する側になります。

この件では、裁判所命令による出版差し止めや法規制というリアクションがあれば、出版社や著者にとって確実に不利になると思われます。ですが、大多数の良心的な人たちはそういったネガティブな動きに対し心理的障壁があり、その潮目は予測可能といえます。
当然、個人レベルのアクションに対する社会的なリアクションは必要ですが、リアクションの程度や方向が定型化してくると、アクションする側にとって一方的に有利な状況になりかねません。

今に始まったことではありませんが、新旧のメディアによって「操作」される人々が質的・量的に増えることで、その影響力が新しいステージに移行している――という現状が、この問題の『本質』なのかもしれません。

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