相模原障害者殺傷事件~これは大量殺人という名の「拡大自殺」か?~

どうも、重金やからです。

7月26日に相模原市で起きた障害者の殺傷事件についてですが、現時点ですでに様々な報道がなされており、かなりの情報が出てきています。
ただ、やはりこれまでの犯罪と比較できるものが少なく、ニュースを扱う側も混乱しているように思えます。

犯行そのものについては、効率的かつ合理的に行われており、これを実行するには、相当の意志力と強い動機が必要だと想像できます。
また、その後冷静に自首している点でも、これまでの大量殺傷事件とは比較が難しいと思います。

すでに、植松聖容疑者の経歴や関係者によるエピソードは様々に報道されていますが、ブログなどのソーシャルメディアなどではそういったモノの細部から特異性を読み取ろうとしています。
過去のこういった事件では、単一の病名や障害に原因をあてはめる傾向がありましたが、この件ではそういう単純化も説得力に欠けるため、これまでにない視点が求められているともいえます。

ただ、そういった細部からのアプローチもややこじつけに近い印象があるため、全体像としての解釈は必要だと思います。
私自身が報道を見る限り、気になるのは植松容疑者の「躁うつ病的性格」です。疾患としての躁うつ病は『双極性障害』などと呼ばれますが、診断そのものは専門家による長期間の観察が必須条件になります。
とはいえ素人の目から見ても、植松容疑者の移り気な興味・目標の変化と自滅的な行動は、成人してから徐々に悪化しているようにみえます。

話題は変わりますが、覚せい剤を使用すると、人によっては「何かの作業」へ一心不乱に没頭するコトがあるそうです。たとえば家の中にあるリモコンなど、目の前にある機械類を無意味に分解するといった事が、その例に挙げられます。
こういった行動は、覚せい剤が脳内のドーパミンなどの作用を強め、通常は感情や情動の関与で起きる「動機づけ」が、それとは関係なく起きるコトが原因です。
躁うつ病の「躁状態」でも、患者の行動は一見すると自由な選択によるものにみえますが、やはりその動機づけには本人の意思以外の強い力が働いていると思われます。

そういった視点からみると、彼の人生は彼自身によって半壊しており、また今後さらに悪化するとみる事ができます。
その責任をだれにも転嫁できないのは、本人もよく理解していたのではないでしょうか。

彼の移り気な行動のほとんどは長続きしていませんが、やがて「障害者の問題」というある意味で一貫したテーマが現れはじめます。
これは、私から見るといわゆる「置き換え」という心の働きが関係しているように見えます。「躁」の後にくる「うつ」の時には、行動力ではなく思考力が強くなりますが、これは問題解決のための時間ともいえます。
ですが彼の問題は「彼自身」であり、簡単には解決する手段がありません。そういった場合に、解決すべき問題をより都合のいいものに「置き換える」というのが、彼のケースにおけるこの言葉の意味です。

こういった心の働きそのものは一般的なものであり、彼はこの「障害者の問題」を考える限り、自分の問題と直面することを避けられます。
そしてこの「置き換え」は、不安障害などの疾患において「無意味な儀式的行動」を繰りかえすことにも似ています。また一度これらの傾向が現れると、簡単にはやめる事ができません。
ただ、彼の場合ではその思考が「躁状態」の行動と混合されているため、仮にそれらが正しいとしても見分けにくいのではないかと思います。
さらに、その傾向が病的なレベルに達した場合でも、例えば不安障害などでは「一日に百回以上は手洗いする」といった分かりやすい症状となって診断は比較的容易であるのに対し、彼の場合はそれが難しいといえます。

彼の本当の意味での特異性は、この「障害者の問題」についての思考に関連して見られるものと私は思います。
逆に言えば、それ以外では「好青年」と「絵に描いたような若者の悪行」のありがちな二面性の範囲内にあるはずです。

この「一貫したテーマ」は、自分自身を守るためだったといえますが、こういった心理によって「自分を騙している」のは、本人によっても少なからず意識できると思います。
そして彼が、彼の荒廃した人生を「今後も生きていく」ことに疲れた場合、このテーマへの抑制をしないという「不作為の作為」で、ある意味での終着駅に着くことが出来るともいえます。

彼が仕事を辞めてゆく過程には、その意味があったのではないでしょうか。行きつく先は、大量殺人という名の「拡大自殺(間接自殺)」です。
そして、あの犯行を周囲にほのめかしていたのは、「アクシデントによる途中下車」という逆の願望が関わっていると思います。ですが、それは最後まで果たされませんでした。
当然それは周囲の責任ではありませんし、この段階で防ぐといっても長期間の観察がないと難しいでしょう。その意味でも、措置入院は決して切り札にはなりません。
また、その過程はごくストレートなものに見えますが、自分の主張が本気なのか狂言なのか、他者を翻弄するような側面があるのは、犯行そのものを含めて彼の明確な邪悪さといえるでしょう。

私は、そういった思考の根本にある、彼の「躁うつ病的性格」と「荒廃した人生」は、どこかのタイミングで改善へと向かうべきだったと考えます。
現在の精神医学は、いわゆる「病気の押し売り」とよばれる商業主義が発展の要因として挙げられますが、心の健康をそれとは別の良い意味で父性的にケアすることが可能なのか、今後この社会が試されていると思います。

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